昨日のエントリーで「本を送りません宣言」というのは「お腹いっぱい宣言」とまとめたが、今日はその続き。
宣言で、やたら「古本」に言及しているのが目につくなぁって言う事ふくめ、本文をじっくり読んでみる。
便宜的に本の種類を3種類に分ける。貴重書の類は考えないことにする。
新品:支援者が新たに買って被災地に送るもの
未使用品:支援者が所有しているもので状態が新品同様のもの
古本(A~Z):新品より状態が劣るもの。汚れ度合いによってA級→Z級
被災者が望むのは当然新品に準ずるものだよね。
新品と未使用品は状態が一緒なので被災者の効用は同じだけど、
経済を刺激するという意味も含めて新品の方がより支援になるだろう。
震災直後に「過度の自粛はやめよう」って発言とおんなじ。
古本は喜ばれないだろうか?
新品に準ずる本だけで需要が満たせない(需要>供給)のなら、
状態の良い古本Aなどは十分に支援としての価値はあるだろう。
もっとも、捨てるぐらいなら被災地に送ろうよ的な気持ちの古本Xなどは、
被災地でもゴミだろうけど。こんなの送るのは残念な感じだ。
宣言本文1もうなずける。
本を送るという行為は、本を贈る(プレゼントする)という行為です。私たちは通常、少なくとも「古本」を大切な誰かに贈りません。
ですから、私たちは被災地や被災者に「古本」は贈りません。
大きな失敗だったのは、一瞬にして供給過多(需要<<<供給)になることを予測、制御できなかったことだろう。
みんながみんな献本プロジェクトに協力しようぜって言って本を集めて送った結果、
一瞬にして0→100を通り越して200、300となってしまった集団の善意の失敗という形だろう。
私なんぞは全くわかってなかったけど、実際のとこプロジェクトの中心にいた人たちにとっても、
震災直後にどんな本がどのくらい必要かという把握や、どのくらいのペースでどれ程の本が集まるかの予想って難しかったじゃないのかなとは思う。
宣言本文3のこれ
被災地には「本」で営みを立てている方々もいます。善意に基づいて大量に送られる本は、実は被災地にある書店等の「知」の経済環境を破壊します。
ですから、私たちは、新品を含め、被災地や被災者に「本」を送りません。
ニュースで一冊のジャンプをみんなで順番に立ち読みしているといったニュースが感動的に取り上げられていたけど、
そんな仕入れもままならず商売どころじゃない状態であれば献本は支援として成り立つが、復興が進むにつれて被災地の書店の商売の邪魔になると。
そして実際には物流の復旧は支援者の想像しえないほど早く、支援を通り越して破壊になってしまったと。
復興で大事なのは物資を行き渡らせることにとどまらず、被災地の産業振興、雇用促進まで見据えないとってことですね。
宣言本文2も見てみよう。
本は重くかさばり、場所をとります。実は本はたいへん扱いにくいものであり、被災地の限られた空間や人手を奪います。
ですから、私たちはこの事実を常に意識し、被災地に古本を送りません。また、新品を贈ることにも慎重にふるまいます。
本を送りません宣言の反響ほか #saveMLAK からコメントを拝借するが、宣言はこう見える。
・「本を贈らず図書カードを送ります宣言」でもいいかもしれん?
・「モノではなくて金を送ろう」ってことなんですよね?
現実の問題は、需要と供給のバランスだけでなく管理コストも考えなきゃならんと。
管理コストが小さくなるように、本より現金のがいいじゃんってことだね。
でも、需要・供給の把握と違って、本より現金の方が管理が楽なんてことは最初からわかるじゃない。なのになぜ献本だったのか?
私の気持ちだけど使途不明の寄付金よりも、図書館復興のためとか目的がはっきりしてるとこに寄付しようって思う。
本を送るにしても、どの本を送るかを選べる方が支援もしたくなる。
私のように感じる人が多いのなら、現金で集めようとするよりも、本で集める方がたくさん集められる。こういうことじゃないかと。
事実は本をたくさん集めることには成功したが、結果としては残念になったようだけど。
長々と書いてきたので簡単にまとめよう。
要は現地の状況を適切に把握して、必要なとこにベストタイミングで支援できれば善意を無駄にせずハッピーなんだよね。
被災地から遠く離れた人が適切な支援をするには?
これは被災地のリアルタイムでの正確な情報があればいいね。公正な観察者の目でとらえたやつね。
そうそうsaveMLAKの趣旨って被災情報を集め、必要とされている情報を発信だよね。
てことで宣言はちゃんと趣旨に帰結できた。